日本の里やさと(八郷)・石岡市

日本の里100選に選ばれた八郷(やさと)

こんにちは mizukusa kasumigaura です。
やさとの里山、自然、歴史はすばらしいものが多くあります。生活の近代化に慣れた私達には、心になにか物足りなさを感じませんか。むかしからのふるさとの自然を筑波山や加波山の周辺のなかで、心に沁みる多くを感じることができました。山と源流とさとのある風景。最近の写真と以前の写真とを公開します。by mizukusa kasumigaura
Yasato was selected as one of Japan's best 100 villages.

  

2011年12月7日水曜日

大覚寺 晩秋 親鸞の足跡 常陸の国 板敷山大覚寺

大覚寺 晩秋

親鸞の足跡 常陸の国 板敷山大覚寺

親鸞は笠間市稲田にある「稲田の草庵」を軸に柿岡方面、府中方面、そこから鹿島方面にも布教のためよく訪れた。
大覚寺も最初は布教活動の拠点板敷の草庵だった。稲田からは山越えの道もさほど離れていない。
親鸞聖人はここ大覚寺で山伏、弁円に襲われそうになるがまたたく間に帰依させたという。弁円は同じ八郷に明円寺を建立した。
親鸞は承安3年(1173年)京都市伏見区日野誕生院近くで公家 日野有範の子として生れる。母「吉光女」の祖父は清和源氏、八幡太郎義家であったとされる。治承5年(1181年)親鸞9歳。京都青蓮院にいおいて、後の天台座主、慈円(慈鎮和尚)のもとで得度し、「範宴」(はんねん)となった。
出家して比叡山延暦寺に入る。慈円のもと、常行堂にて天台宗の堂僧として、不断念仏の行を叡山において約20年間厳しい修行を積む。
建久3年(1192)7月は源頼朝が征夷大将軍になり、鎌倉時代となる。
建仁元年(1201)親鸞29歳の時、比叡山を降り、聖徳太子の建立と伝わる京都市中京区の六角堂へ百日間籠もる。
心に法然を知り東山吉水(京都市東山区円山町)にある69歳の法然草庵を訪ねる。そして左京区岡崎天王町に草庵を結び、百日間法然の元へ通う。
法然の念仏の教えに共感、入門を決意する。法然より「綽空」(しゃっくう) の名を与えられる。親鸞は行を重ね、やがて師との信頼関係が深まる。
元久2年(1205)入門より5年後の4月崇高な仏書の書写を許され、「善信」(ぜんしん)と名乗った。綽空からやがて善信房親鸞となったようだ。
法然のもと、東山吉水に於ける念仏行の拡大は民間まで大きく広まっていった。
これに懸念を抱き、興福寺は元久2年(1205)九箇条の過失「興福寺奏状」を朝廷に専修念仏の停止を訴えた。
 ◆九箇条の失の事 ◆
第一 新宗を立つる失。第二 新像を図する失。第三 釈尊を軽んずる失。第四 万善を妨ぐる失。第五 霊神に背く失。第六 浄土に暗き失(浄土を暗くする失)。第七 念仏を誤る失。第八 釈衆を損ずる失。
第九 国土を乱る失。
後鳥羽上皇の建永2年、専修念仏の停止と4名の死罪、法然と親鸞を含む7名の弟子が流罪になる。
流罪の法然、親鸞らは僧籍をとられ、法然は土佐国番田へ親鸞は越後の国府に流された。
流罪より5年後の建暦元年(1211)11月親鸞に勅免宣旨が順徳天皇よりありまた、法然にも入洛許可が下りた。しかし、  法然は京都で建暦2年(1212)1月25日、80歳をもって入滅。
しかし、親鸞は布教のため越後にとどまり、赦免より3年後の建保2年(1214)新たに東国布教活動のため、家族や門弟と共に越後を出ち信濃国善光寺、上野国佐貫庄を経て、常陸国に向かった。建保2年(1214)に「小島の草庵」(茨城県下妻市小島)を結び、建保4年(1216)桂村大山に「大山の草庵」(茨城県城里町)を結んだと伝えられる。
そして笠間郡稲田郷の領主である稲田頼重に招かれ、同地に「稲田の草庵」を結び、この地を拠点に精力的な布教活動を行う。また、親鸞の「教行信証」は、稲田の草庵において草稿原稿を著作したと伝えられる。親鸞は常陸で浄土真宗を確立した。
注。笠間村は大化の改新後(646)は新治郡に属し、新治(にいはり)郡は平安末期までに東郡・中郡・西郡・小栗御厨となり、笠間はこの中で東郡に属し、その後笠間郡となった。

明円寺 
明法房開基二十四輩十九番大澤山明圓寺
浄土真宗本願寺派


大澤山 常陽院 明圓寺 茨城県石岡市真家1055)‎
〔注〕 二十四輩十九番は親鸞聖人の弟子24人の内の19番目の弟子
明法房とはもと修験者の先達弁円で常陸金砂郷の城主佐竹末賢が久慈西の郡塔の尾楢原谷に護摩堂を建立し弁円を招き祈祷所を設けた。これがとても栄えた。
親鸞聖人が健保2(1214)新潟からの帰途笠間の近くの稲田に草庵(現、西念寺)を建て布教をはじめた。これがまたたく間に広まった。稲田の草庵から数キロ離れたやはり親鸞布教の草庵、板敷山大覚寺に弁円は出向き親鸞を狙ったと伝えられている。しかし、たちまちにして親鸞聖人に帰依するところとなった。親鸞聖人は稲田から大覚寺を通り、柿岡、国府(石岡)でも布教した。(本願寺報05年11月号より一部引用)

http://www.kasumigaura.net/usr/mizukusa/Kasumigaura/page/A0324.html
(霞ヶ浦の自然・・・明円寺より)my page 平成5年

大覚寺晩秋
大覚寺晩秋 
親鸞像
鐘楼
 大覚寺晩秋
大覚寺門塀
 大覚寺晩秋 
 庭園付近
 大覚寺の秋
大覚寺鐘楼 晩秋
 大覚寺境内
 遠慶宿縁
大覚寺山門 晩秋
大覚寺の鐘楼 晩秋
板敷山大覚寺 晩秋
 晩秋の板敷山大覚寺

 大覚寺の鐘楼 晩秋
大覚寺塀 白と黒
山門付近
大覚寺前








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2011年12月4日日曜日

旧大増小学校校舎 石岡市大増 ・ レトロな大増小学校旧校舎

旧大増小学校校舎 石岡市大増

レトロな大増小学校旧校舎

旧大増小学校の歴史は明治5年に大増学校、大塚学校、太田学校として創立した。明治19年3校が合併し、小見尋常学校となる。26年に大増小学校が45坪の広さで開校。その後明治44年に27坪増築された。昭和20年代に入り、学童の増加によって狭くなりまた、校舎が老朽化したので昭和25年小学校新築委員会が発足。昭和26年2月10日基礎着工し、完成まで区民が延10,476人労力奉仕し、地区内にある香取様の木も利用されました。昭和26年5月日には271坪の大増小学校の上棟式がおこなわれ、同年暮12月8日落成式となりました。二日後から授業が新校舎で行われました。
昭和59年(1984)大増小学校と恋瀬小学校が統合された。
 学校からすぐ近くに燕山、加波山丸山を望み、反対側には板敷山が見え、風光明媚な場所です。近くには彼の親鸞上人で有名な板敷山大覚寺、上曽城主、古尾谷隠岐守治貞の開いた寺、正法寺があります。(大増小碑文,恋瀬小沿革)
大増小学校旧校舎
 大増小学校旧校舎
 大増小学校旧校舎
 大増小学校旧校舎
 大増小学校旧校舎
 大増小学校旧校舎
大増小学校旧校舎 
 大増小学校旧校舎
 大増小学校旧校舎
 大増小学校旧校舎
 大増小学校旧校舎
 大増小学校旧校舎
大増小学校旧校舎 
 燕山、加波山方面
 今回の地震で屋根の被害
 大増小学校旧校舎
大増小学校旧校舎
 大増小学校旧校舎
大増小学校旧校舎 
 板敷山方面
 丸山方面
 大増小学校旧校舎
 大増小学校旧校舎
 地震で崩れ落ちた二宮尊徳先生の立像
加波山、 燕山方面
加波山、 燕山方面
歴史が刻まれた碑




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