日本の里やさと(八郷)・石岡市

日本の里100選に選ばれた八郷(やさと)

こんにちは mizukusa kasumigaura です。
やさとの里山、自然、歴史はすばらしいものが多くあります。生活の近代化に慣れた私達には、心になにか物足りなさを感じませんか。むかしからのふるさとの自然を筑波山や加波山の周辺のなかで、心に沁みる多くを感じることができました。山と源流とさとのある風景。最近の写真と以前の写真とを公開します。by mizukusa kasumigaura
Yasato was selected as one of Japan's best 100 villages.

  

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2011年2月11日金曜日

佐志能神社 石岡市柿岡高友

佐志能神社 石岡市柿岡高友 伝説が豊富なところ


佐志能神社は丸山古墳の森の東側に有ります。石岡市役所八郷支所を恋瀬川の方へ進み、高友橋を渡るとすぐ突きあたりに石段があります。旧い石段を上り詰めると佐志能神社があります。
祭神は豊城入彦命、日本武尊、彦狭島尊の三柱で、境内神社に浅間神社(木花開耶姫命)があります。由緒沿革として崇神天皇の第1皇子豊城入彦命が四道将軍として東国鎮撫の大任中薨去し、丸山古墳(前方後方墳)はその陵墓と伝わる。佐志能神社は豊城入彦命を祀り建立されたと伝わる。社殿は藤原藤房の奉献と伝う。旧くは貞純親王の御書額があったと伝わる。中世は白鳥明神と称した。(茨城県神社誌)
佐志能神社社殿            06/Jan.2008
佐志能神社境内          06/Jan.2008 
佐志能神社境内          06/Jan.2008 
佐志能神社境内          29/Jan.2007
庚申碑・二十三夜尊碑他   06/Jan.2008 
佐志能神社入口          06/Jan.2008 
佐志能神社境内          06/Jan.2008 
恋瀬川 高友橋付近  06/Jan.2008 
丸山、加波山方面  06/Jan.2008 
足尾山、丸山、加波山方面  06/Jan.2008 
筑波山 丸山古墳から  29/Jan/2007











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2011年2月4日金曜日

篤誉上人と八郷の伝説

《篤誉上人と八郷の伝説》石岡市須釜
八郷(やさと)小幡の近くに須釜(すがま)という集落があります。柿岡から旧道で、八郷の富士山の横を通り、湯袋峠経由筑波山方面へ向かう途中フルーツラインの手前に石岡市須釜があります。この辻に二十三夜尊などの旧い石碑が並んだ一角があります。そのすぐ傍ににやや大きい篤誉上人と書かれた石碑があります。石からすぐ判読できるのは「篤誉」という文字ですが以前から心にとめていました。旧い八郷町誌によりますと、江戸時代の後期、集落の近くに老僧が庵を結び布教しました。僧は篤誉上人と呼ばれ、多くの人々の悩みを聞き、重篤の病人も祈祷をするとすぐ快方へ向かいました。万が一助からなかった時も手厚く葬りました。老僧はそばが大好物で村人のお布施のそばをよろこんで食べていました。しかし、時折お布施のそばを手にしないことがありました。ひとが理由を尋ねると僧は黙ってそばを切って見せました。そばの切り口は血がにじんだように赤く染みて見えました。僧は無言でいましたが、その者が驚き、しつこく問うと「ひとに邪念があるとこのような結果になる。心を清く持ち仏心を得なさい」とさとしました。人びとは驚き、篤誉上人の教えに耳を傾け信心に徹しました。上人の教えを受けたものはみな、幸せに暮せたそうです。上人はひとびとの幸せを見届けると庵からまた、突然姿を消しました。そのあと、人びとが篤誉上人の碑を建てて供養したそうです。
そばの赤いところを血に見立てたむかし話がほかにもあったような気がします。
右端が篤誉上人の碑
石岡市須釜
交差点はフルーツライン
近くからの筑波山
諏訪神社 石岡市須釜
フルーツライン交差点(稲荷山付近)この先は小幡


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2011年1月15日土曜日

北向観音堂 石岡市小野越

 北向観音堂 石岡市小野越 

小町の里 観音堂と小野の小町伝説の地を訪ねて


むかし、聖武天皇の御代、常陸国分寺建立のため行基菩薩が奈良から連れてきた仏師の稽文會主勲とともに、筑波山の峰伝いで巌に包まれたこの霊地を発見、観音を祀る堂宇を建立したと伝わる。
当時の観音像は残ってはいないが現在江戸時代の観音像が祀られている。2007年その仏像は桜川市の仏師によって修復された。小野越、仏生寺、中山、菖蒲沢付近は筑波山の麓で、不動峠を通じて筑波山方面や平沢官衙、つくば市、土浦市方面へ行き来する大昔からの旧道であった。観音像の修復完了のとき、観音堂にまつわる古文書と古地図が公開された。
以下はその大略です。
常陸国北向観世音縁起大略
常陸国分寺建立のため行基菩薩が奈良から連れてきた仏師の稽文會主勲とともに常陸国府の地に来た時、東南方面に瑞光を放つ場所があったので行基が急きょ訪れてみると、筑波山の峰続きのこの山に珍しい木々や、そびえ立つ巌とともに周りには澄んだ水が潤っていた。
行基は感心してこれこそ天然の聖地なりと云った。不思議な光こそ神聖なる神竜の潜む兆しの地と云い、巌をよじ登ってみると一人の白髪の老翁が巌の上に座って行基を迎えた。行基は深く頭を下げ教えを請うた。老翁は行基に伝えた。「この山に霊木あり、この木を使い仏を彫るがよかろう。ご利益が多大であろう、そしてここに留まり霊験を見届けるがよかろう」と行基に伝えると、俄かにあたり一面が暗くなって、風雨とともに雷が鳴り、山河は揺れ動き山林は火事になり多くの木を焼いた。
この中に一本の白檀の木があり、小枝は焼け損じたが幹は無事であった。里人は皆驚き行基に祈り、祀るよう願った。
白檀の木で早速行基と仏師稽主勲が協力して観音像を彫った。
里のひとはおおいに喜び、堂宇を建立し、仏像を安置して深く祈り祀った。
里人は仏の生まれるによって寺を仏生寺と名付け、竜光の瑞あるを以て、竜光院と名付けた。
 それから世紀ほどの月日が過ぎたある日、ひとりの貴婦人が婦人病を患い、草深い峠を越えてこの観音堂を訪れ、祈ると病は治り、婦人はとても喜んだ。そして、和歌一首を残し此の地を去った。
後の日、和歌を識者が見たところ小野の小町の和歌であった。そして、小野の小町が峠を越して来たる所の故に小野越村と名付けられた。観音堂はご利益と霊験あらたかが伝わって多くの人々が訪れた。


八郷、小野越付近(石岡市)13/Jan./2011 
空気がよい小野越の空と山   13/Jan./2011 
北向観音堂 石岡市小野越 27/June/2006 
向観音堂 石岡市小野越 27/June/2006 
修復公開日の観世音菩薩像 30/Jun.2007
修復公開日の観世音菩薩像 30/Jun.2007
公開された古文書 30/Jun.2007
小町の里いぼ神   30/Jun.2007   
小町姿見の池  30/Jun.2007
石の像  30/Jun.2007
観音堂境内  30/Jun.2007
観音堂境内  30/Jun.2007


小町せせらぎの家の看板のある家  30/Jun.2007
付近の泉  30/Jun.2007 
雪の小野越 北向き観音堂入口   30/Jun.2007 
雪の小野越付近 石岡市 17/Jan./2008
 北向観音堂付近 石岡市小野越 17/Jan./2008
雪の日の北向観音堂付近 石岡市小野越 17/Jan./2008
北向観音堂入口 石岡市小野越 17/Jan./2008
観音堂の寒椿 17/Jan./2008
雪の日の観音堂  17/Jan./2008
前を流れるせせらぎ  17/Jan./2008
雪の日の観音堂 17/Jan./2008
雪の日の観音堂 2k 17/Jan./2008
雪の日の観音堂 3 17/Jan./2008
観音堂入口  17/Jan./2008

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