日本の里やさと(八郷)・石岡市

日本の里100選に選ばれた八郷(やさと)

こんにちは mizukusa kasumigaura です。
やさとの里山、自然、歴史はすばらしいものが多くあります。生活の近代化に慣れた私達には、心になにか物足りなさを感じませんか。むかしからのふるさとの自然を筑波山や加波山の周辺のなかで、心に沁みる多くを感じることができました。山と源流とさとのある風景。最近の写真と以前の写真とを公開します。by mizukusa kasumigaura
Yasato was selected as one of Japan's best 100 villages.

  

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2011年2月14日月曜日

八郷の歴史 小泊瀬山と小初瀬川(足尾山と恋瀬川?)

中心付近は足尾山


◆恋瀬川と小初瀬川、高友川・葦穂山と足尾山、小泊瀬山・常陸國風土記と万葉集


❤ロマンにあふれる盆地
恋瀬川のこの付近は高友川と呼ばれていた時代もありました。また、いにしえは小初瀬川と云われていたという文書も存在するようです。弘安3年(1280)8月8日平某の花押とあり(八郷町誌)当時、筑波山と八郷盆地を小さい奈良盆地と見立てると、奈良の初瀬川や丸山古墳、八郷の足尾神社などのつながりや延喜式社の解明できると面白いとおもいます。
◆小初瀬川記載の長歌
雙び峰、陰陽神の崇りぬる、男女川の水清く陽成院の御製とに、高し御山の津々志とや、当国にその名も高き山ぞかし、夷針峠へ打ち続き、田籠の郡の桜花常盤樹しげる丸山は御万喜帝の日本皇子、豊城入彦の御墓をば左へ越して百目鬼の、丸木の橋や小初瀬川、夫婦の松屋片果てて、名残を拝し郷月の絶え間の雄の鹿の若葉を己けて、茨城の国の名こそ志られけん。弘安3年(1280)8月8日平氏某(花押)  
ここでは「ならびみね」と読むのでしょうか、万葉集巻の九、検税使大伴卿の歌に 衣手常陸の國 二竝ぶ筑波の山を・・・・・とあります。
百目鬼橋(ざわめきばし)。丸山古墳の下を流れる恋瀬川の橋百目鬼橋は今も健在です。
豊城入彦の墳墓気になりますね。
ページリンク2佐志能神社 石岡市柿岡高友
ページリンク1恋瀬川と高友橋 石岡市柿岡高友
ページリンク3丸山古墳 茨城県指定文化財 史跡 石岡市柿岡

◆常陸国風土記と小泊瀬山
常陸国風土記新治郡の項に葦穂山があり、小泊瀬山(乎婆頭勢夜麻)の歌がある。葦穂山の歌は万葉集をはじめ、後の時代まで多く歌われている。今は足尾山と呼ばれている。私の好きな一首は新後拾遣の「小初瀬の花のさかりやみなの川峰よりおつる水の白波」です。雙び峰と筑波山はよばれ、多くの文人が筑波山を中心として樺(加波山)葦穂(足尾)を愛でたようです。当時、筑波山の男女川は想像的にもロマンが宿る川であった。雙び峰、筑波山と樺(加波山)葦穂(足尾)は常陸地方の景観の良い山として親しまれてきました。
常陸国誌によると「延期式神名帳に夷針神社有り」とあります。また、和名類聚抄・巻6(古活字本)に茨城郡の里名に夷針の文字があり、このこともあわせて詳しく検証できると良いと思います。後から発行された八郷町史には有る程度詳しく記述されています。
小初瀬山(小泊瀬山)と小泊瀬川と(小初瀬川)、日本の里八郷(やさと)は雙び峰の筑波山、樺(加波山)葦穂(足尾)につつまれたロマンにあふれる盆地です。恋瀬川も流れる場所(下流域)によって志筑川などと呼ばれていたようです。
 桜川へ流れる男女川は筑波山神社付近(つくば市)と、真壁の羽鳥付近(桜川市)の二ヶ所に有りますが歴史的に探ってみるとおもしろいと思います。
◆往古の夷針
明治22年大増村、大塚村、太田村、小見村、中戸村、が合併して恋瀬村になった。往古常陸國茨城郡に属し後、新治郡となった。
井白郷或いは館の荘に属した。(茨城県町村沿革誌・細谷益見)
また、夷針郷とも伝わっている。
◆往古の田籠郷
明治22年柿岡村、金指村、片野村が合併柿岡町になった。
往古常陸國茨城郡田籠郷に属し後、新治郡となった。
(茨城県町村沿革誌・細谷益見)
◆往古の大幡郷
小幡村(往古館ノ荘。明治22年小幡村他6ヶ村合併)小桜村(明治22年半田村他10ヶ村合併)
この他拝師郷、小見郷があった。




雙ならび峰の筑波山(奥、雪の峰) 13/Feb./2011 /Yasato


筑波山・足尾山付近林道から 28/Nov.2007
筑波山・足尾山付近林道から 28/Nov.2007
足尾山林道付近から八郷盆地
足尾神社
足尾神社案内板
足尾神社 神社の建物は現在ない
足尾山付近の広葉樹林
葦穂付近(麓)からの足尾山
葦穂付近(麓)からの足尾山 2
葦穂付近(麓)からの足尾山方面
足尾山~丸山間林道下の恋瀬川源流
葦穂(足尾山)下の恋瀬川源流
八郷盆地から足尾山方面(恋瀬川浦須橋付近から)
八郷を流れる恋瀬川










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2011年2月4日金曜日

篤誉上人と八郷の伝説

《篤誉上人と八郷の伝説》石岡市須釜
八郷(やさと)小幡の近くに須釜(すがま)という集落があります。柿岡から旧道で、八郷の富士山の横を通り、湯袋峠経由筑波山方面へ向かう途中フルーツラインの手前に石岡市須釜があります。この辻に二十三夜尊などの旧い石碑が並んだ一角があります。そのすぐ傍ににやや大きい篤誉上人と書かれた石碑があります。石からすぐ判読できるのは「篤誉」という文字ですが以前から心にとめていました。旧い八郷町誌によりますと、江戸時代の後期、集落の近くに老僧が庵を結び布教しました。僧は篤誉上人と呼ばれ、多くの人々の悩みを聞き、重篤の病人も祈祷をするとすぐ快方へ向かいました。万が一助からなかった時も手厚く葬りました。老僧はそばが大好物で村人のお布施のそばをよろこんで食べていました。しかし、時折お布施のそばを手にしないことがありました。ひとが理由を尋ねると僧は黙ってそばを切って見せました。そばの切り口は血がにじんだように赤く染みて見えました。僧は無言でいましたが、その者が驚き、しつこく問うと「ひとに邪念があるとこのような結果になる。心を清く持ち仏心を得なさい」とさとしました。人びとは驚き、篤誉上人の教えに耳を傾け信心に徹しました。上人の教えを受けたものはみな、幸せに暮せたそうです。上人はひとびとの幸せを見届けると庵からまた、突然姿を消しました。そのあと、人びとが篤誉上人の碑を建てて供養したそうです。
そばの赤いところを血に見立てたむかし話がほかにもあったような気がします。
右端が篤誉上人の碑
石岡市須釜
交差点はフルーツライン
近くからの筑波山
諏訪神社 石岡市須釜
フルーツライン交差点(稲荷山付近)この先は小幡


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2011年1月15日土曜日

北向観音堂 石岡市小野越

 北向観音堂 石岡市小野越 

小町の里 観音堂と小野の小町伝説の地を訪ねて


むかし、聖武天皇の御代、常陸国分寺建立のため行基菩薩が奈良から連れてきた仏師の稽文會主勲とともに、筑波山の峰伝いで巌に包まれたこの霊地を発見、観音を祀る堂宇を建立したと伝わる。
当時の観音像は残ってはいないが現在江戸時代の観音像が祀られている。2007年その仏像は桜川市の仏師によって修復された。小野越、仏生寺、中山、菖蒲沢付近は筑波山の麓で、不動峠を通じて筑波山方面や平沢官衙、つくば市、土浦市方面へ行き来する大昔からの旧道であった。観音像の修復完了のとき、観音堂にまつわる古文書と古地図が公開された。
以下はその大略です。
常陸国北向観世音縁起大略
常陸国分寺建立のため行基菩薩が奈良から連れてきた仏師の稽文會主勲とともに常陸国府の地に来た時、東南方面に瑞光を放つ場所があったので行基が急きょ訪れてみると、筑波山の峰続きのこの山に珍しい木々や、そびえ立つ巌とともに周りには澄んだ水が潤っていた。
行基は感心してこれこそ天然の聖地なりと云った。不思議な光こそ神聖なる神竜の潜む兆しの地と云い、巌をよじ登ってみると一人の白髪の老翁が巌の上に座って行基を迎えた。行基は深く頭を下げ教えを請うた。老翁は行基に伝えた。「この山に霊木あり、この木を使い仏を彫るがよかろう。ご利益が多大であろう、そしてここに留まり霊験を見届けるがよかろう」と行基に伝えると、俄かにあたり一面が暗くなって、風雨とともに雷が鳴り、山河は揺れ動き山林は火事になり多くの木を焼いた。
この中に一本の白檀の木があり、小枝は焼け損じたが幹は無事であった。里人は皆驚き行基に祈り、祀るよう願った。
白檀の木で早速行基と仏師稽主勲が協力して観音像を彫った。
里のひとはおおいに喜び、堂宇を建立し、仏像を安置して深く祈り祀った。
里人は仏の生まれるによって寺を仏生寺と名付け、竜光の瑞あるを以て、竜光院と名付けた。
 それから世紀ほどの月日が過ぎたある日、ひとりの貴婦人が婦人病を患い、草深い峠を越えてこの観音堂を訪れ、祈ると病は治り、婦人はとても喜んだ。そして、和歌一首を残し此の地を去った。
後の日、和歌を識者が見たところ小野の小町の和歌であった。そして、小野の小町が峠を越して来たる所の故に小野越村と名付けられた。観音堂はご利益と霊験あらたかが伝わって多くの人々が訪れた。


八郷、小野越付近(石岡市)13/Jan./2011 
空気がよい小野越の空と山   13/Jan./2011 
北向観音堂 石岡市小野越 27/June/2006 
向観音堂 石岡市小野越 27/June/2006 
修復公開日の観世音菩薩像 30/Jun.2007
修復公開日の観世音菩薩像 30/Jun.2007
公開された古文書 30/Jun.2007
小町の里いぼ神   30/Jun.2007   
小町姿見の池  30/Jun.2007
石の像  30/Jun.2007
観音堂境内  30/Jun.2007
観音堂境内  30/Jun.2007


小町せせらぎの家の看板のある家  30/Jun.2007
付近の泉  30/Jun.2007 
雪の小野越 北向き観音堂入口   30/Jun.2007 
雪の小野越付近 石岡市 17/Jan./2008
 北向観音堂付近 石岡市小野越 17/Jan./2008
雪の日の北向観音堂付近 石岡市小野越 17/Jan./2008
北向観音堂入口 石岡市小野越 17/Jan./2008
観音堂の寒椿 17/Jan./2008
雪の日の観音堂  17/Jan./2008
前を流れるせせらぎ  17/Jan./2008
雪の日の観音堂 17/Jan./2008
雪の日の観音堂 2k 17/Jan./2008
雪の日の観音堂 3 17/Jan./2008
観音堂入口  17/Jan./2008

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2010年10月23日土曜日

佐久良東雄旧宅(国指定文化財 史跡)


佐久良東雄旧宅(国指定文化財 史跡 

指定年月日- 昭和19年3月7日
所在地- 茨城県石岡市浦須314-1建てられた時期 -江戸時代後期と推定される。
佐久良東雄と旧宅(八郷の茅葺民家)
桜を愛でた佐久良東雄。土浦の豪商、色川三中とともに鹿島神宮に桜の苗木千本を植え寄付した。自身も佐久良と名乗った。心の影響を受けた本居宣長(もとおりのりなが)も桜を愛しを歌った歌集「枕の山」には桜の花300首の和歌 がある。また、佐久良の親友、笠間の儒学者加藤櫻老は桜川の歴史古き山桜の名所、磯部稲村神社の桜の復興に力を注いだ。ここは水戸黄門のお気に入りの場所でもあった。ここの桜は黄門によって、水戸の桜川や江戸各地に植えられた。同じく桜川(真壁)の親友、櫻任蔵も櫻と名乗っていたのは偶然のことだったのであろか。波難常言 花者雖多 花細 散久良能花似 及波難者不有(はなという はなはおおけど はなぐはし さくらのはなに しくはなはあらず)東雄
勤王歌人佐久良東雄の生家。佐久良東雄は文化八年三月二十一日筑波山の眺めの良いこの地、林村浦須で父飯島平蔵の子として生まれた。幼名は吉兵衛、十五歳の時、同じ林村にある真言宗観音寺に入り康哉法師に師事し仏弟子となり、名を良哉、字を高俊と改めた。ここで康哉に師事し万葉歌他を習得した。康哉は雨引山楽法寺第二十世僧恵岳などの学統をうけて万葉の研究に従事したので「万葉法師」の別名があった。良哉入山の文政八年師の康哉は真鍋村(現土浦市)の善應寺に第十七世住職として就いた。文政十二年師、康哉は再び観音寺に戻った。良哉(東雄)は仏道修行のため大和の真言宗宝山寺派本山長谷寺で修業となった。天保三年春師は病に伏し三月八日遷化した。良哉はその前に奈良から呼ばれた。師の最後の看取りの少し前、師は良哉に墨をとらせ辞世の歌を残した。師は良哉に蔵書すべてを贈った。良哉はその後観音寺の僧や真鍋の善應寺の僧を経て住職についた。色川三中、長島二左衛は親友であり、藤森弘庵、藤田東湖、櫻任蔵、加藤櫻老、島男也は交友であった。その後、天保十四年五月善應寺僧を辞し東国をあとにし江戸、矢ノ倉に住し国学の研究を進める。この頃水戸藩奥医師鈴木玄兆の娘輝子と婚姻す。弘化二年九月、佐久良東雄三十五歳で京都から泉州へ、その間数年を経、大阪北久宝寺に住し座摩神の祝部となった。後、安政元年末(四十四歳)佐久良は京都に出、妙法院ノ宮に奉仕し中奥席格になり静と名を改める。安政五年三月神祗伯白川資則の門に入り神祗道學師の称号を授けられた。
萬延元年三月三日桜田門の変で其の徒高橋多一郎親子を匿り、佐久良は幕史に知られるとなり三月二十一日東町奉行所に引致された。そして、四月二十四日大阪を発ち江戸伝馬町に送られたが病んで獄中に死す。一説に食を絶ち死すと。
【参考文献】佐久良 東雄、望月茂著 大日本雄弁会講談社 s17。贈従四位佐久良東雄大人略伝、編纂兼発行 吉田弥平 s12、佐久良東雄歌集 櫻華社s18、佐久良東雄 八郷町教育委員会s57、サイト「霞ヶ浦の自然」。 
高光る 日の皇子わが大君の しろしめす 天のしたに
高山は 多にあれども 神祖の 神のみことの
尊くも しづまりいます この山は 大汝少彦那の
二神の つくらせりけむ わが国の 筑波の山は
宜なべ いよよ昇れば 山並の よろしき山
山つぎの よろしき山ぞ 筑波の山の 朝に氣に
常に見れども 二並の筑波の山は 見がほし山
うべしこそ 見がほし山と古ゆ 人のいひつぐ筑波の山は
【参考文献】佐久良 東雄、望月茂著 大日本雄弁会講談社 s17
1 神祖・かむろぎ
2 大汝少彦那・おおなむちすくなひこな
3 宜なべ・うべなべ
(原書、ふりがな)

佐久良東雄生家

佐久良東雄生家の門

佐久良東雄生家

佐久良東雄生家

佐久良東雄生家

佐久良東雄生家

佐久良東雄生家

佐久良東雄生家 案内板

佐久良東雄生家 蔵
建具



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